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イマーゴなんて、ない

思考によるコンピュータネットワークへのの自由介入(マニュピレート)とは、新しい身体性の確立と同義だ。
つまり気の遠くなるような、繰り返しの動作によってのみ、脳内マップへの定着が可能になるはず。
その繰り返しの訓練を省略して描いている、イマーゴなんて、現実にはありえない。


逆にその耽溺の向うに、真のイマーゴの可能性を描けなかった事が、マンマシンインタフェースの未来を幻視する立場から大きなマイナスであったとぼくは思う。


もっと未来を感じさせるドラマが描けたはずなのだ。


テクノロジーの進歩は、身体性の拡張を加速する。


ただしそれを使うのは人間だし、全て脳内にアドレッシングしないと任意に無作為に使用できない。そのプロセスの大変さ、修練、鍛錬というものを、映像を見る側は甘く見ない方がいい。作り手にとっては常識だろう。


一部の異能者が可能なのではなく、凡才の血がにじむような努力によってしかそれはなされない種類のものだ。そして、その反復に耽溺できるかどうかはたぶん別の話になる。


ヴィジョンを持ち行動することで、何事も成し遂げるのが人間ではあるが、
ヴィジョンを持ち続けることの大変さを、あんまり誰も教えないようなので書いておこう。