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20年前の提言

先週25話のサッチー墜落シーンの美しさと、そこにある宮崎作品への既視感から、下記を思い出した。

風の谷のナウシカ―絵コンテ (2) (アニメージュ文庫 (B‐003))
   巻末「前略 宮崎駿様 ───<漫画映画について>」より

〜略〜
作画の力でウムを言わせず強引に説得してしまう。この種の方法は痛快であることは確かですがその代償として、必然という <劇(ドラマ)> のもつ最大の力をあっさり無化してしまうのだと思います。
〜略〜
「見たいものを見せる」ことが、技術の裏づけさえあれば文字通り絵に描いたように可能な世界───。であればこそ僕らは<アニメーション=映画>の相対化に意を払うべきなのです。 <劇(ドラマ)> は明らかに作者の内部を通過しつつも決して作者自身と同一化してはならず、客観的な <作品> として外部に定着され、なおかつ作者自身がその中を通過してゆくべきものではないでしょうか。
<漫画映画> とは実はその方法的限界の故に <映画> に成熟できぬ過渡的な形態をさすのだと思います。そしてそれは個人の思い入れのみによって貫かれた世界であるが故に、共感やその場の感動を呼ぶことはあり得ても、最終的に何ごとかを語り得る(語りかける)ことへは到らぬものだと言わざるを得ません。
〜略〜

1984年初版発行。この文を書いた押井守氏(当時32歳)は、翌年「天使のたまご」を撮って、数年干された。


最近スタッフに上巻・巻末の「アニメーション画面処理について」を読ませたくて買いなおした際に再読。
16歳のぼくには、「人が楽しんでいるものにケチをつける、何か偉そうな人だな。」という印象だったが、今読むとずいぶん納得できる。
本気でアニメーションやゲームを次世代の輸出産業に育てるためには、必要な考えだと思います。


電脳コイルは本日が日本放送協会から最終回の放映。
OPやEDをなくすのって、シナリオの仕込みミスって思ってしまう。盛り上げる手段ではあるんだけど。