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ドレッドノートは終わったが

大きいことはいいことだ。
アラビア語の田中四郎先生からお聞きした話。
日本ではウォークマンとかより小さいものが評価されていた時代だったけど、砂漠の人は大きな機械を喜んで買い、小さい商品には見向きもしなかったとおっしゃっていた。商社の通訳か何かをされていたときの体験談だったと思う。


家庭用の、そうパスポートサイズが売り文句だったキャメラで、モノレールを撮影していたら、何を撮っているのかとしつこく聞かれて困ったことがある。「鳥です。」と嘘を言った。野鳥観察はわかりやすい趣味だったとみえて、おじさんは納得して去っていった。でも、手持ちの小さなビデオキャメラに、コンバージョンレンズをどかどかつけて三脚で撮影しているのはやっぱり怪しいよね。(なにせ、初めて触った一眼キャメラがOM1なんでね。仕方ないんです。ちなみにこのOM1開発の状況を知る手立てとしてこの本一眼レフ戦争とOMの挑戦―オリンパスカメラ開発物語 (クラシックカメラ選書)は面白かった。)


その後、そこそこの大きさの業務用キャメラを勤務先で買ってもらってからは、撮っていて何を撮影しているのか話しかけられたことはない。
キャメラの大きさは、周りの人にある種の納得と安心感を与える上で重要な要素だそうだ。*1


勤務先のリフレッシュコーナーにおいてあった雑誌に添付されていたtenori-onの演奏DVDを見た。
実物を見てない感想で申し訳ないが、ふと上記のことを思い出した。


ユビキタスもいいけど、小さいとどうしても、インタフェースとして伝えるものを伝えきれないような、どこかに何かボトルネックのようなものを感じる。パイプオルガンやギター、グランドピアノに見られるような、豊かなマンマシン間のリレーションシップを感じれない。
それに、ライブのような祭事空間には、宗教的ハッタリの演出は不可欠。
だとしたらギターやベースのような、バスターランチャーのような、物干し竿を振り回すときにこそ、一番高揚感を得るのではないか。特に男はそういうモノだとぼくは解釈している。


「身体性の拡大がすべて物理空間での質量増大を伴うべき」とは思わないんだけど、アーケード機器のように、各地に巨大な質量へのインタフェースを設置して、必要に応じて拡張するスタイルが好きですね。


そんなことをぼんやりと考えていて、いつも繰り返し思い至るんだけど、シンセサイザーエフェクター類がすべてソフト化しすぎることへの危惧というかささやかな不満がどこかにある。マイクロ・コンピューティング自体はとても好きだし、その恩恵をこよなく得ているんだけれど、アナログボリュームやアナログメーター、LEDが並ぶコンソールの持つ魅力は絶対的にある。


学術的に詰めていけば、アフォーダンスや瞬間的な認知の問題なんだけど、とりあえずは個人的な気分の問題と言うことで。

*1:結婚式のビデオ撮影では特にそうだと聞いたことがある。