エースへの遇し方
打海文三さんの「裸者と裸者」に始まるシリーズ*1は、その第二部「愚者と愚者」から表紙イラストレーターが帝国少年さんに変更され、文庫本になった際には第一部の「裸者と裸者」までも帝国少年さんの仕事に揃えられた。
そのこと自体は、作品のテイストや、シリーズで揃える読者の心理にマッチしており全く反論はない。シリーズとして、目下勢いのあるライトノベル市場を視野に入れ、読者層を広げ売り上げを伸ばすというのは良い判断だと思う。
それでも、この表紙を始めて見たとき「おしいなぁ。またしても、表紙に恵まれなかったなぁ。」と感じた気分についてちょっと説明したい。
実はぼく自身、帝国少年さんとは一度だけ仕事をしたことがある。
ちょうど5年ほど前のことだ。
メールでのやり取りだけだったんだが、そのときは印象は、オーダー通りにあげようとして面白くなくなるきらいがあったように記憶している。確か、ギターやドラムの楽器シミュレーションゲームの映像だからと、楽器を演奏している人の絵がまずあがってきたのだ。先にもらった資料から、世界観を描ける方だとはわかっていたので、数回のやり取りの後、仕方なく「ゴミゴミした汚い街、最低の街、で、マンサーチャーをしている人の話*2」みたいなお題をかなり具体的に、しかし膨らませる余地を充分に残したまま、こちらから投げさせていただいた。
フリーのイラストレーターが、ビジネスモデル上の不安定構造から、そして新人のうちは特に、クライアントの意向に敏感になる。それは痛いほど良くわかるんだけど、発注側としてもやはりその人に頼む理由があるわけで、そのひとの味、その人にしか実現できない世界観、ひらたくいえばオリジナリティを強く求めている。そういう意味で、イラストレーターはもっとずっと好きに描いて良いと思うし、好きに描いている人が成功している気がする。ここまではOK?
そして、当然、編集や担当デザイナーサイドは、イラストレーターの妄想能力を正しく見極め、彼もしくは彼女の背中に付いている「起爆スイッチ」を奥までキッチリ押す必要がある。共犯者として、相応の尊敬と信頼、さらなる狂気へ導くことへのわずかなる逡巡と悔恨のうちに。
5年前の話に戻る。帝国少年さんが描いたイラストレーションを元にチームの敏腕スタッフがムーヴィーを作成した。その映像は実機で出た瞬間からチーム内でも人だかりができたし、市場でもその曲は当時のヴァージョンで一番の人気になった。後に作曲家から、「映像に助けてもらった。」と、お礼までいっていただいた。
そして、そのちょっと後くらいから、帝国少年さんのメジャーな仕事を散見するようになった。なるほど、うちの仕事はできなくなるわけである。
ただ、「愚者と愚者」の表紙やその後の仕事を見るたびに、もう少し好きに描かせてあげたらもっと良くなるのになぁと、歯がゆい思いをする。確かにこれでも良い。ただ、ぼくにはまだ上が見えるのだ。力を使い切っていないと感じるのだ。そして、そこまでイラストレーターに妄想と狂気を強いる編集者かデザイナーに恵まれなかったところに、打海文三さんの悲劇があったのではないかと勝手にぼくは妄想する。まぁ、このシリーズは売れているみたいなんで、余計なお世話だよね。ああ、それくらい肩入れしたくなる作家だったんだよなぁ。
ぐだぐだと、日本酒の杯を傾けながら、近所の本屋ではバックヤードに放置されていた、たった一冊しか配本されなかった「覇者と覇者」を眺めながらこれを書いている。書店員は出版する全ての本を憶えられないし、コンピュータに実際の入荷が記録されるには数日のタイムラグがあるんだそうだ。背表紙側のミカエシは折れ、他にも全体に状態があまり良くはない。それら全ては、もうどうでもいい気がする。きっと、この一冊は、散々な目に会いながらもやっと我が家のぼくの手に届いたのだ。大事に読もうと思う。
ところで、今日のプロンシプルは、
エースには「一番得意な玉を、気持ちよく投げてもらう環境を作ること」が何よりも肝心。
です。誰がエースなのかはおいておく。
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