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「CapHeads」雑感

先月、7月の16日におもちゃショーがあった

ペットボトルのキャップをテーマにしたトイの発表があるということを聞いており楽しみにしていたが、あいにく多忙で行けなかった。幸いなことにコレクターの同僚がいて、時間に都合をつけ見に行ってくれた。有難いことである。コレクターの横のつながりは強い。

同僚の報告を読む


目的の「CapHeads」は雑玩コーナーのいちアイテムとして展示してあり、特にバンダイとしても力を入れているといった感じではなかったのですが、人付きはよく、大勢の来場者が集まっていましたとのとこと、情景が瞼に浮かぶ。
報告を続けて読む。
個人的な感想ですが、やはりバンダイはターゲットを若い女性やエコに興味がある人と考えているようでコレクターズはそれほど意識していないようでした。
一番の不満点はキーホルダー替わりに鞄に付けたりはできますが、コレクターズアイテムとしてディスプレイケース等での展示についてはあまり考えられていない感じがしました。
一応立つことは立つのですが、足の部分の安定感が足りず、すぐに倒れたりします。もう少し台座を付属させる等展示する事も前提で商品化してくれれば満点だったかなと思います。


バンダイナムコの担当者には申し訳ないが、われわれがペットボトルのキャップを集める意図は主に純粋に美的なものを追求する気持ちから来ている。環境保全やリサイクルは意図していないと断言してかまわない。
これは、国内有数のクリティークであるOJさんも心中は同意見なのではと密かに推察する。というのは過去にペットボトルのキャップを回収する機関からのコメントがあり、少しよそよそしく答えていたように感じたからだ。
コレクターの業といったらうがちすぎだろうか。

少し別の話をする

板金の化粧板にロゴを1色で刷るとしたらどうするか。もちろんエッチングだ。エンボスをつけて、段が落ちた部分に墨を入れる。表面をコートする。カッコいい。高級感もある。ある年齢以上の人間には、それが当然のことのように思える。それがステッカーで代用されていて、がっかりして顔を見合わせるわけである。もちろん代用となるステッカーもメタルインク*1にポッティングと相応に豪華なステッカーである。しかし、われわれが期待する効果とは全く異なる。まったく異なる。天と地ほど違う。

なぜそんなことに?

理由はもちろん環境への配慮だ。エッチングに使う溶媒が環境汚染の原因になるからだろう。確かに中学校の頃、プリント基板のエッチングに使用した第二酸化鉄の処分法は、ずいぶんあいまいに取扱説明書に記載されており、どうしたらいいものか、困ったのを憶えている。
こういうことは大企業が率先しなければならない。正論だ。安易に妥協せず、代替案、同じ効果を他の方法で実現するよう努力すべきだ。それも正論だ。金属を削ったらいいのだ。いや、一度でも金属を削ったことがあれば、たいへんな仕事であることがわかる。金属の粉末で肺が汚れるのは大企業の人間ではない。もちろん一個あたりのコストもエッチングに比べれば段違いだろう。
こうして、エッチング装飾を行っている零細企業は仕事がなくなり廃業し、その技術はあっという間に再現できなくなる。そういう筋書きを想像する。


エッチングによるプレート加工の技術が失われることは、単に技術的な問題ではなく、それを美しいと感じた使用者がいなくなることを意味する。これは以前読中感を書いた「日本語が亡びるとき」が指摘する日本語が亡びる構造と似ている。

ポリティカルコレクトネス

ペットボトル自体は、既に相当環境に負担を与える商品・製品であり、それを使う人、作る人、流通させる人、ともに罪人だ。真っ黒々でギルティだ。また、リサイクル自体、どこまで環境破壊やエネルギー問題に貢献しているかはブラックボックスだと個人的には感じている。個人的には缶や瓶を使い、製造・流通は相応のコストをかけ、コンシューマーもその対価を分かち合う事が本来のエコロジーに近い。
それでも、もっと安価で便利な技術が発明されるまでは、このペットボトルという手法が使われることは間違いない。そして、安価で優れた代替技術がいったん発明されれば、ペットボトルは簡単に打ち捨てられ、ペットボトルのキャップに、商品を象徴する意匠が匠にデザインされていた事実は早々に忘れられるだろう。


何人かの好事家の手にコレクションが残ったとしても、私たちが日常的に使い、美的な価値を楽しんだその想いは永遠に失われる。
そういう気持ちでコレクションをしているということを、バンナムの人はおそらく気づいてはいないんじゃないだろうか。


そんなことをツラツラ明け方の風呂の中で考えた。

●関連サイト

*1:これもいつまで使えるかはわからない。