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印刷と手書きでは異なる字体があって当たり前

本来字体が同じなのであれば、手書きで表現されたときに自然な形、印刷書体で表現された場合に自然な形、それぞれの場合に応じて、それぞれの自然な表現形態で文字を表すべきだ。という考えです。点の数も「字体A」とみなせると思います(頻度的に楷書の2点は、1点よりも圧倒的に少ないでしょう、対して明朝体の場合には、「当用漢字+常用漢字」が存在しなかったら、2点のものが圧倒的に多かったはずです)。しかし、それらは同じ字体の異なる技術的・様式的な表現と言えるはずです。なぜ技術的、歴史的にもっとも自然な表現形態を用いずに、わざわざ最終的に印刷される表現形態をいじって不自然な形にしてしまうのか。という点が、私の疑問です。もし常用漢字が2点を規範的な形だと決めたと仮定しましょう。その場合、手書き・楷書のシンニョウは表内については全部2点で手書きしなければならなくなります。おそらくみなさん「そんなことはしないよ、ありえない」とおっしゃる筈。それなのに、なぜ印刷書体の形は変えさせても良いのか。それは手書きの形態だけを優先しつつ、印刷書体の歴史的・様式的な連続性は軽視して、「活字なんてどうにでも変えさせることができるものだ」と思っているからではないでしょうか。そのことが、タイポグラフィに対する意識の低さの表れのように受け取ったのでした。
        ──────追加字種と部分字体が衝突する現行の常用漢字(もじのなまえ)に対する山本さんのコメント

「出版語(print languages)」と「口語俗謡(vernaculars)」の違いについて、先日読んでいたが、「印刷する文字」と「手書きの文字」もまた異なるのだった。

これは双方とも現代の一般的な日本人の頭からは、確かに抜け落ちた話。
持つものの無邪気さ。エノラ・ゲイ乗務員がオバマを指して世間知らず(ナイーブ)と言ったことを想起する。
この記事は内容もしかり表記もまた興味深かった。

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