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自分が自分であることの居心地の悪さ

〜略〜
フィールドワーカーとしての仕事は、とりあえず彼に「慢性の故郷喪失者」であることを要求する。どこにいっても民俗学者は「自分の家にいるという気がしない」。それがレヴィ=ストロースを惹き付けた。人は「自分が自分であることの居心地の悪さ」をデフォルトとするような生き方をしている限り、それほど大きな破壊や愚行にはかかわらずにいられる。
〜略〜
                       ──────毎日新聞夕刊2009/11/11


勤務先の会社では、複数の新聞をとっている。だから、家では読売だが、こうして毎日の記事にも目を通すことができる。終礼前の夕方、ミーティングが終わり席に戻りほっと一息をつくと、ノーツのアラーム。そうだ。水曜の夕刊に、内田先生がレヴィ=ストロースの追悼を書かれたのだった。夕刊なら、そろそろきているはず。席を立ち、階段を下り、食堂前のリフレッシュへ。カウンターテーブルの端にきれいに並べられた夕刊をくる。


「慢性の故郷喪失者」であることの可能性について、これほど明確に書かれた文章は知らない。安易に文章世界に同期しがちなのは、本好きなぼくの悪い癖なのだが、それでも自己矛盾を抱えながら生きることについて、灯火を感じさせる言葉だった。


「どこへ行っても、そこで生まれた気がする」二十歳前後に友達にダビングしてもらったテープで、久保田利信が歌っていた。果たしてそんなことがあるのだろうか?どんな服を着ても似合うように、どんな地域でも昔から住んでいたような顔をする。そんなことがあるのなら、酷くうらやましい気がそのときはした。ひょっとすると、人間的な成長が進むことで、こういった許容性・適応力が上がるものなのかもしれない。そういった期待を持って20年過ごしてきたが、結局全く変わらなかった。


「どこへ行っても、そこに属しているという気が全くしない」「MissFiter(順応不適合者)」「Wandering(放浪)」という気分を、物心ついたころから継続して抱えてきた。8歳で関東から関西へ引越し、その後もあちこち転居した。会社を何回も転職した。色々な国へ行っても、どこへ行っても、どの街も気に入らない。そこに所属している気がしない。何をやっていても、やり残した気がする。
ぼく自身は、8歳のときに、関東から関西へ引っ越したときに、メンタリティの違いからくるショックが大きな原因と考えていたが、どうもそうではないんじゃないだろうか。追悼文を読んでいて、そうひらめいた。根拠はないがなんとなく。


たいしたものも作れず、日々後悔と悔恨を積み重ねる。憔悴、焦り、大きな満足もなく、脱力といらだち。自分の能力をうまく使えていないという申し訳なさ。全体として、役に立たない人生だとは思うが、それほど大きな破壊や愚行にはかかわらずにサヴァイヴできるのなら、それは許容すべきだろう。


そう考え、ちょっと、救われた気がした。