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The Sound Of Silence

表立っては何事もなかった。しかし研究至上主義を標榜する古い大学組織の中には、目には見えない赤外線が低い位置のあちこちに張り巡らされていた。私のふるまいは、しばしばその赤外線を横切って、ちりちりと冷たい、音のない音をたてた。
                         ─────第2章 ヴェネツィア、二〇〇二年六月


福岡節である。こうした幽き音を聞きながら組織の中でぎりぎり、まぁいいか、といった判断や行動をする心情をたいへん良く表している。
おそらく、「パセティック」と内田先生ならおっしゃるだろうこの一文をカミさんに読み聞かす。


「ハードボイルドね」


と一言。


「この人の読んで来た本が、手に取るようにわかるわ」


たしかに福岡さんが描写するポスドクの日常と酵素のふるまいは、チャンドラーが開発した現実描写技術を思い出す。まさにピンクの虫の世界だ。
そういえば、受精後の胎児以前の男性の性器が当初の女性のそれから男性のものへ分岐変容していくという、おそらく誰も実際に見たことがない事柄を、福岡さんが実にたくみに描写していたことを思い出した。あれは衝撃的だった。文章は実際の映像よりもリアルな描写になりえる。




研究者としての彼のキャリアは完全に破滅しました。南米に逃げる金を稼ぐこともできなかったでしょう。
                         ─────第12章 治すすべのない病


私の好きな打海さんの小説では、破滅した主人公が最後にフィリピンや韓国などに逃げる描写がある。たいていはそれなりに暮らしているようで、実際そんなにうまく行くものかと、いつも真剣に悩む。
「ダメージ」という映画で、ジュリエット・ビノッシュによって破滅したジェレミー・アイアンズ演じる落ちぶれた男が、ギリシャか南欧の海岸の寂れた小屋でチーズを食べていたのを思い出す。日本なら東南アジア、アメリカなら南米、欧州なら南欧というパターンなのだろうか。あれはうまそうなチーズだったな。


こういう「何かわけありで外国へ逃げる」というモチーフは、個人的に昔からとても引かれるものがある。最初の職場でうまく行かなかった時分に、真剣にブラジルへ移住することを考えたこともあるくらいだ。ブラジルで日本人がグラフィックデザイナーとして職にありつける確率は低いにもかかわらず。
その後も職場でそりが合わなくなると、英国勤務募集に手を上げてみたりと、なぜか異国で一から始める生活に心引かれる。足元を固め、社会人として家庭人としての責任を果たせという話はもっともなんだけど、そういう根っこの軽さはなかなか根絶しがたい。そうか、これもインクラビリ(治癒のあてのない病人)か。




久しぶりの代休消化的平日休日。午前中はカミさんに付き合い、三回の買い物を。午後は職場のK氏から借りた本を読んだ。血圧は高いままで、酒もダメ、食事も制限、20時には寝ましょうとまるで面白くないが、ベランダの窓から見る明石の海は相変わらす美しい。
「世界は分けてもわからない」は、「生物と無生物のあいだ」の続編としての位置づけなのか、相変わらずちょっと散文的な一種誌的な構成だった。「もう牛を食べて安心か」「できそこないの男たち」がわりと一本道だったのとは趣が異なる。やはり、色々な風景を観た気になるこうした構成のほうが私は楽しい。

そうした風景の一部としてのメモ


それにしても「かそけき」なんて形容詞を読むのなんて本当に久しぶりである。それがこの本では3回も使われている。幽き。美しい響き。翻訳ではあまり使われることはないだろう。

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

追記(2010/03/02)
「ザッテレの河岸」は「地図のない道」に収録されている。読後感は少し悲しい。それでも、あてどもなく人の痕跡を辿る視線には何か懐かしいものを感じた。
地図のない道 (新潮文庫)

地図のない道 (新潮文庫)