tQy

まだ、心と体を切り離せると考えているのか

明日からまたうろうろしていてじっくりAVATARについて書くことがままならないので今日こそ書く。AOUはみなさん来てくださいね。お楽しみがいっぱいありますよ!

飛ぶ夢

まず、翼竜で飛ぶシーンが良かった。イントロダクションで「飛ぶ夢から覚める」記述があることから、この映画の主要な表現の一つだろうと推察する。
立体視を強調させる演出は、非常に計算された表現が序盤に多くあり観客への大きなつかみになっている。しかしその後緩やかに減少し観客をエピソードに集中させていたように思う。だが中盤のこの飛行シーンで再び立体視はその効力を発する。
「子供の頃、このシーンを見て、映像制作の世界に入りました」そういう子供たちが出てくることが容易に想像できた。
このシーンを見ただけで、わざわざ2時間かけてこの映画を観るためだけに「かやの中央」まで来た甲斐があった。何しろ上映のコストと同じくらい交通費の方がかかるのだ。まぁ、ついでのランチやお買い物とさらなる散在のタネは尽きないのではあるが。


立体視は、かなり脳に負担を与えるように思う。従って、ストーリーの理解や感情表現をじっくり見せる演出の際には押さえ気味にするというような配慮が必要なんだろうということを実感できたのは収穫だった。ちょうど1年ほど前、2008年の末にTOHOシネマズ六本木ヒルズで観た「センターオブジアース」は極めて苦痛に満ちた立体視体験だったことを思い出す。あそこは、Dolby 3D Digital Cinema方式だったかな?どうもTOHOはXpanD 3D式みたい。液晶シャッターメガネってけっこう大きな印象なんだけどなぁ。 立体視の種類や方式、メリット・デメリットは他の優秀なサイトに譲るとして、私が「センターオブジアース」を観た感想は「正直、眼鏡の上から眼鏡はきつい」だった。こういう上映環境なら、立体視はしばらく無理かな?とも思った。


そういうわけで、AVATORの上映にはかなり慎重だった。日本に4つしかないIMAXだったが、迷いはなかった。席も吟味した。中央のやや後が理想。ただ、H20やI20は実際に行くと思ったより前だったけどね。それでも、あまり前や左右の端は充分な立体視ができないだけでなく、頭が痛くなるかもしれない。映画は我慢しながら観るものではないだろう。今回は結局、それほどしんどくはなかった。眼鏡もその存在を途中では忘れた。息子は長時間かなり辛かったようだ。立体視すら慣れの問題かもしれない。車を始めて運転したときは相当緊張した。だが、すぐに慣れたはずだ。あれと同じかもしれない。人間の脳の状況へのしなやかな順応性。

技術開発

日本人がこの映画を作れない理由はお金や俳優よりも技術だよね。そういう話を同僚とした。R&D、リサーチ・アンド・ディヴェロップメント。R&Dは儲からない。だから、儲かる仕事をこなしながら合間にコツコツ研究を続ける。出てきた成果をちょっと実際の仕事で試してみる。うまくいったこと、失敗したこと。それらは再びR&Dの坩堝に入れられぐつぐつ煮続けられる。AVATARでさえ本質的には実験の途中なのだ。ターミネーターのときのような手探り感を、私はどのシーンかで観ていて感じた。
こういった技術開発、これを10年、同じヴェクトルで続けるのは、相当な「思い」がないと難しい。彼の場合は志を同じくする仲間にも恵まれた。盟友スタン・ウェストンは完成を観ることなく亡くなった。仲間に後を託して、前を見ながら死んでいったように思う。

映画の条件

良い映画の条件

上映時間が90分以内である

と、昔の人はいった。1秒24コマが人間の視覚認知にとって最適とされるように、50mmのレンズが標準であるように、身体的に気持ちの良い単位は色々あると思う。旧いかもしれないがこういうプリンシプルを信望する私としては、この映画は失敗だと思う。
途中でふと時計を見る。あと1時間以上ある。約160分は3時間弱。これは長いよ。長い。長すぎる。確かに最近の映画は全体的に長い傾向があるが、それは編集技術や脚本家をスポイルするだけだ。「高いんだから長い方がオトクと思うんじゃない?」家内はいう。確かに、そう思う人は多いかもしれない。しかし、それでも、私は反対である。目先の楽に流されることで、後で大きな喪失に気がつく。そうならないように努力したいといつも考えている。


ここからは、ストーリを気にする人は読まないほうがいいかもね。


で、いっそ、後半をばっさりなくしてしまったらどうだろう。マリーンとナヴィの全面戦争はなし。大きな木の倒潰も大佐の壮絶な死もなし。だいたい既に現実は死と憎しみに満ちている。もういいんじゃない。上映中、ナヴィ族の破滅への足音を聞きながら思った。おそらく最後はマリーンが負け、ハッピーエンドにはなる。だけど、それまでにせっかく美しくCGで描いてきた大勢のナヴィ族やパンドラの生き物が死ぬだろう。仮想現実であっても、いや個人的には仮想現実だからこそ、それは勘弁してほしかった。ATOMSでロボの破壊を描いたとき、私だってずいぶん悩んだのだ。散らばる破片に手首は含まない。そのときは結局そういうコードにした。


なぜ、明確な結末を描かなければならないか?お約束のピンチと逆転。これがカタルシスには必要な定型なのだろうか?戦争の陰が濃く差すまま、わずかな希望の光を感じさせて終わってもいいんじゃないか、と重ねて思う。
もしくは、全て終わって、実は生き延びた大佐が、老いて一人海岸の小屋の中でチーズを食べていたっていいんじゃないかな。何かちょっと反省した面持ちでね。


キャメロンはアメリカの右派がこの映画でマリーンのスピリッツを汚していると非難されたことに反論していたが、彼自身充分マリーン気質だし、病んだアメリカを体現しているように思う。全てのものに魂があり、それはネットワークされている。日本人にとっては、至極当たり前な概念。だが、決して一神教キリスト教とは、本質的に相容れないこの概念をフラワーチルドレンたちはこぞって取り上げた。だけどアメリカ人として生まれ育ち、身についた身体性はそれを拒んでいるように思う。それとも、充分わかった上で、次の技術を開発するための繋ぎとして、あえて世間受けするこうした商品を選んだのだろうか。

転生

ラストに主人公が人間からナヴィ族に意識が転移する演出は予想はしていたが感慨深かった。20年前、攻殻機動隊の連載の最終回で、少佐が人形遣いと統合する際、私は大きな誤解をしていた。無線のSWをONのままにして。アラマキに頼んだその理由を。それは無線でネットワークに繋がっていることで、自分の意識をネットワークへ移行できるから、というように解釈していたのだった。人形遣いを媒介に、意識が体と切り離せる、愚かにも私はそう夢想していた。実際には元子は強化チタンに包まれた脳殻を維持し続けた。ネットワーク上に複製体が増えはしたが。


今では私のこの意識自体、極めてあやふやであり、多くの無意識や人生の午後を迎えつつあるこの肉体が、私というアイデンテティを保障しているということが良くわかってきた。AVATARは肉体なしに存在しない。果たして3ヶ月の生活で、充分な身体性が確立できただろうか?何年も使用していない下半身の操作が、AVATARで即座に可能だったのはおかしくないか?睡眠時間に元の体に戻るという設定は、脳の機能上、大きな矛盾を孕んでいないか?そういったことを考えるのもAVATARを観る楽しみの一つだろう。


息子にそっと尋ねてみた。
「後半全部なかったらどう?世界はどうなったかわかりません。みんなそれなりにがんばって生きていくでしょう。そんな終わりかたってあり?」
「映画やろ。ありえんし。」

関連エントリー

●参考サイト