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自分の袋に入る分だけを取る

人にモノやコトを伝えるということの難しさを実感する
「通訳ダニエル・シュタイン」の中にこんな一説があった。(第三部70P)

不愉快な話さ。私は自分の見解を説明すべきだったが、できなかった。正直言うとね、ヒルダ、何を話すことができて、何を自分の中にしまっておくべきことか判断するのはいつもとても難しいものなんだ。若い頃には、誰もが全てを知っているべきで、私は神父として自分の知っていることを全ての人々と分かち合う義務があると思っていた。年をとるにつれて、そうではないと悟ったよ。人は、自分が受け入れられる分しか知ることはできないんだ。私は人生の大半ずっとそのことを考え続けてきた。とりわけこのイスラエルでね。でも、そのことを打ち明けられる人はほとんどいない。君以外には。
君ならわかるだろうが、自分の中で固定したものを壊すのは恐ろしいことなんだ。ある一定の道筋で考えるのに慣れてしまうと、慣れた思考法からほんのちょっと逸脱するだけでも苦痛なのさ。誰もが喜んで新しい考えを受け入れたり、自分の知識をより正確にしたり、補足できるわけじゃない。そもそも変ることを嫌がるものもいる。言っておくが私自身はどんどん変っている。それに、多くの物事に対する私の今の視点は、カトリック世界で一般に受け入れられている見方とは一致しない。そういう人間は私だけじゃない。

知っている事を全部話すことが相手にとって最善ではない。
何よりも受け入れてくれない。
人は自分の袋に入る分だけを取る。
私も、あなたも。


先だって東欧へ旅行に行った母から天使のオーナメントをもらった。
モーゼの十戒に、神を模して形作ってはいけない、とあった。偶像崇拝を禁ずるとの解釈が一般だが、神を描くこと、転じては人を描く事すら中世は禁忌だったときく。
英語で"The maker"は、神を指すという。真の作り手は神のみ。さすれば、現代であっても西欧社会では人型のロボットを受け入れることは日本ほど容易ではないという推測も良く聞く。
では、ロシア正教に良く見られるイコン*1や、こうした天使をかたどったオーナメントは許されていたのか?
どうして?あの、厳しいキリスト教で。
これに似た問いと答えが、この本にもあった。ユダヤ人はなぜあれほど神を描いていたのか?モーゼの十戒があるにもかかわらず。
ユダヤ人にとって、行動は細かい戒律によって厳しく定められていたが、その精神は極めて自由であった。だから描くことも自由のひとつとして存在した。


戒律
日本でも職人世界や芸能事では「お作法」が厳しい。
理屈ではなく、行動から入る。
頭でわかっても、行動できないことを、我々は理解とはいわない。
おまえはわかってないよな。生半可。知ったか。頭でっかちと言って蔑む。身体化しない芸能は決して許されない。
無意識に体が動くようになって、初めて精神は自由たりえるのかも知れない。無数のショートカットが身体化し、自在にツールを使えて初めて想像力にそった制作が可能になるように。


残念だが、我々の世界は計算では測りかねないことばかりだ。
天体の運行、暦、純粋な数学世界、理論物理、計算通りに物が運び、条件をそろえ、再現が可能な事象は極めて限定的でしかない。あとはランダムネスはびこる、複雑系の世界が広がっている。一切が一度きり、混じりけなしのランダムネス。
人も同じだ。知性・理性・理論を働かせ、正しく思考することは、高度な教育を受けた人間であっても、常に可能とは限らない。ましてやほとんどが大学に行く時代であっても、きちんと論理的に考える訓練の行き届いた人間の少なさには唖然とする。自分の頭で思考する訓練がされていない。戦後民主主義的教育の影響からか、人間は平等であって欲しいと思うが、実際は違う。それが多様性であり、生存の鍵なのだろうが、混沌としている。

図にすればわかる。本当にわずかな左上の第2象限のみが平静を保っていられる場所だ。全ての歴史は解釈次第であり、医療も教育も政治も宗教も1か3か4象限の話だ。


だからこそ、われわれは寛容さを学び、相手により沿う気持ちで、丹念に同じ事を繰り返し、行動から人を訓練していくしかないのだろう。相手の袋が広がるのを待ったり、手助けしたりしなくてはならないのだろう。どんなに無駄に思えても。

●参考サイト

『私だったら君のような立場になりたくないな』私は言った。『政治と恥辱は表裏一体だ』
『ちょっと待ってくれ。私たちはそうでなくても先を急ぎすぎるぐらいなんだ。人々は私たちの後を追いかけるのに四苦八苦している……。人の考えはすぐには変らないんだ』
『でも、もし君にできないのなら、他の人間はそういうことをしようとすら思わないだろう』私は思ったことを全て口にした。

            ─────────────「通訳ダニエル・シュタイン」第三部170P



おそらく自力で考えることの最大の敵は、自分はわかっているという過信です。一番難しいことは、正気を保つことなのです。正気を保つためには、データ分析ほど強力な薬はほかにないでしょう。
            ─────────────不透明な時代を見抜く
「統計思考力」



自分が知らないという事を知っている
            ─────────────無知の知ソクラテス



なんでもは知らないわよ。知ってることだけ。
            ─────────────羽川翼化物語

通訳ダニエル・シュタイン(上) (新潮クレスト・ブックス)

通訳ダニエル・シュタイン(上) (新潮クレスト・ブックス)

通訳ダニエル・シュタイン(下) (新潮クレスト・ブックス)

通訳ダニエル・シュタイン(下) (新潮クレスト・ブックス)

不透明な時代を見抜く「統計思考力」

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*1:いうまでもないがアイコンの語源