ゲームをプロトタイプするとは
ゲームは、われわれ個人ではなく社会の拡張であること、またゲームはコミュニケーションのメディアであること、この二点はいまや明らかになったはずだ。もし最後に「ゲームはマス・メディアか」と問われれば、答えは「イエス」でなければならない。ゲームとは、共同生活者の何らかの重要なパターンに多くの人びとが同時に参加できるように、いろんな状況を工夫して作り出したものである。
上記はまだヴィデオゲームが発明されて普及する前の記述。従ってここでいうゲームとはスポーツの競技でありカードゲームであり、様式としての戦争である。それでも今日のネットワークに繋がれたヴィデオゲームのありようを説明する文章として充分に通用する。さしずめ今ならソーシャルゲームというのかもしれない。
ゲームはラピッドプロトタイプが難しいとされる。
曰く「できたものを遊んで見なければ評価できない」
果たしてそうだろうか。
この答えとして、ジョン前田がMIT時代に行ったワークショップ「human-powered computing experiment」を良く思い出す。レジスタやメインメモリなどコンピュータの内部の働きそれぞれに人を割り振って、機械のふるまいを自ら行うこと(そう、ロールプレイだ!)で気付きを得るという楽しそうなものだ。正確さでは劣るかもしれないが、実際に回路を実装するより、極めて早くシステムを体験し問題点が抽出できる手法だと思う。
おそらく今ならアクティングアウト*1を使うのが一番だろう。
一方で、あまたのRPGがD&Dというテーブルトークという一種の対話劇に端を発する事を知らない人も増えたことも思い出す。話には聞いていたがやったことはないという。これは人のふるまいをコンピュータが代替している。コンピューターの作る擬似乱数と違い、サイコロという本物の乱数を使っているんだよこれは。
結局、体験という情報が行き来しているだけに過ぎないように感じる。
芸術はゲームと同様に、いわば経験の翻訳者である。
─────同著
ゲームやゲーム制作が結局は体験の代弁者であるのなら、まずは体験することが先であろう。頭の中で概念をこねくり回し、一向にプロトを作ろうとしない若い子らのふるまいを見るたびに、ああ、そういうことなのねと思う。身体を拡張する道具(メディア)は使い手しだいという考えは、いささかナイーブ過ぎるのかもしれない。マクルーハンはそれをナルキッソスといって退けた。
- 作者: マーシャルマクルーハン,栗原裕,河本仲聖
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1987/07
- メディア: 単行本
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●参考サイト
*1:寸劇をとおしたインタラクション・ふるまいの検証手法。今度教科書を作ったのでまた紹介します。