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引越しだと思えば、たいていのモノは躊躇なく処分できる

年始から探し始めようやく契約直前まで行っていた物件は、あいにく最後に条件が合わず流れてしまいまた振り出しに戻った。なんかもう、1〜2ヵ月後には引っ越すという気概満々で、結婚当時購入した洋服箪笥や、古いロード(自転車)をどんどん処分していたぐらいだったのだが…。


ちょっとした虚脱感はあったものの、次なる物件を探すことと平行して、部屋の片付け、もとい、つまりは私の溜め込んだガラクタの処分を粛々と続行する。

今度の日曜に引越しだと思えば、たいていのモノは躊躇なく処分できる気がした。

AMAZONから送られてきて、中身をろくに確認していないおもちゃがいっぱいのダンボールがかなりあることに愕然とする。このまま高齢になり、やがて私が死んだら、残された家族がこのガラクタの処理に相当迷惑することを想像してみる。申し訳ない。恥ずかしくなって可能な限りシュリンクする。
昨年くらいから思っていたことだが、欲しいものはそこらのガラクタを組み合わせて自分で作ればいいのだ。本当に欲しいならそれくらい努力するべきなのだ。そしてそのガラクタ材料もほとんど処分した。ブリコルール。それはいずれたまるものだ。


あれほど拘っていたLEGOの紙パッケージも、本当に気に入った数枚以外は、デジカメで抑えて雑紙の回収へ。CMYKの具合など現物でしか確かめられないパッケージ愛はあるが。
部品はまた整理して体積を極力減らさねば。もう新規で購入することはないだろう。


電子玩具は中のICチップと周辺回路を抜き出して、電圧や制御ピンをメモする。外観はデジカメで抑えておく。


定期的に購入するものの全く着なくなったスーツもまとめて古着として処分する。何だか4月なのに肌寒いから1,2枚のジャケットだけカジュアルに古着感覚で着ようと思う。今着ても違和感が少ないのは意外にも20年近く前のHARRISSだった。ファッションはループする。Tシャツの類は今着ているもの以外全部捨てた。喜んで着ていたサープライス物のセーラーも捨てる。辟易としていた家内が喜ぶだろう。


本は悩む。私は今のところ“自炊派”ではない。ブックデザインを愛する故、紙の手触りとそれがもたらすUIを好んでいる。しかし本は増える。選択は必要だ。告白すると、10年ほど前、それまでの部署を追い出されるようにして、現在の部署に移った際に、過去の自分と決別するように溜めていた膨大な雑誌や資料を捨てた。あれは良いことをした、としばらくして気がついたものだった。脂肪が溜まりやすい種が淘汰の波を生き抜いたのは事実だが、贅肉を落とすことも現世を生き抜くためには重要だ。


古いゲームに関して、大半は最新機種でダウンロード販売が可能になったり、リメイクされている。確かに厳密なインタラクションは当時の環境がなければ再現できない。純正のファミコンは厳密にはインタレース出力ではなく、RF入力が可能なブラウン管でないと表示ができないそうだ。そして手になじんだパッドを失うことは文字通り身を切るようにつらい。エポックメイキング的な最低限のハードとソフト本体、インストラクションは取っておくべきか?
「言っちゃいますけど、絶対に電源を入れることはないですよ。」
お昼ご飯を食べながら同僚のM氏が答える。嗚呼、こっちは身の回りのモノをどこまでネット上に退避できるか悩んでいるのに。
「そんな、ゼーガペインみたいな話はやめた方がいいですよ。」
彼の言うことは恐らく正しい。しかし、彼だって膨大なゲームやガンプラを所蔵しているのだ。
「ぼくはまだ諦めていませんからね。」同朋よ。


会社で作った模型作品は、2次利用を考えて全て保存しておいたがこれもダンボール箱で半ダース以上の分量となり行き場を失っている。あちこちごまかしながら流浪させて来たがそろそろ限界か。可能な限り3Dモデル化し高解像度テクスチャーを採取しておきたいが、その作業時間をどこまで取れるかなど悩みは尽きない。「邪魔やし、捨てとくか」そういう耳元で囁く自分の言葉で納得する日がやがて来る。山崎先生の研究室にあったThinkPadの美しい木製のモックアップを思う。効率を重んじる企業では、1年間に50平方センチメートルの面積すら結構なコストになるのだった。


若気の至りで大量に多量に作成していた作品群は、ゴミ出しルールに沿って分別する。発泡スチロールは 「容器包装プラスチック」に、ベニヤ板は「燃えるゴミ」に。ビンは「缶・びん・ペットボトル」へ。土は土に、灰は灰に、塵は塵に。
今、我が家で最も読まれている本は、神戸市 環境局 資源循環部 減量リサイクル推進課が発行した「ワケトンBOOK」なのだった。