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人型に人として扱えば魔物とて人と振舞わん

アンクはどうなっちゃうのか?


その問い掛けで先週の日曜午前8時30分は終わった。


アンクの今後について思索したい。


アンクは魔物である。


しかも劇中では右手のみの存在となっている。


それが、残された半身に取り込まれたのだ。


残された半身は強い。子供の形を取っていたが、何か強そうだ。隙を突いたという利点もある。


普通に考えれば、アンクは吸収されて消えてしまう。


アンクの負けである。


多分そうはならない。いや、確実にならない。お約束とか、主人公補正とかそういうのじゃなくて、脚本家がどういった理屈を持ってアンクを救済するのか考えてみたい。


アンクは劇中で出現した当初から、利便性において、人間(ヒナちゃんのお兄さん)に取り憑いていた。お兄さんの肉体操作のみならず記憶を全て使用できるという設定だ。
魔物の外観ではなく、ちょっと変わってはいるものの、ヒナちゃんのお兄さんの体を借りた「人間体のアンクちゃん」として彼はこの数カ月を過ごしてきた。彼が魔物であることを彼の周りの人は知らない。唯一知っているエイジくんとヒナちゃんは、アンクが魔物だと知っていても人間扱いするという、ちょっとかわった人だったのだ。たまたまね。だからアンクは基本的に人間扱いされてきた。


アンクは魔物であり行動様式は魔物のそれではあるが、人間の記憶を利用していく中で、人間の行動様式に影響を受けて行く、というような流れでの演出があのお兄ちゃんの誕生日プレゼントを受け取った理由だろう。
この人間型であり、人間として扱われ、人間としての振る舞いを強要されて行く日々が、少しずつアンクを変えた。もはやアンクは魔物であって魔物でない。人間性の芽生えを有した魔物なのだ。


この部分は異物であり、最後までアンク完全体への融合を拒むだろう。


それは人間性といってしまえば陳腐ではある。しかし、単に人型をした物体同士がインタラクションを繰り返して行く中で、その場で形成された振る舞いや行動様式に一定のベクトルが発生しており、それを”ヒューマニティ”と呼んでいるだけなのかもしれないよ私たちは、と考えてみる。劇中の大きな駆動力であった”慾”との対比も考えてみる。人間のインタラクションは慾だけでは発生しない。
その魔物同士では発生しなかった振る舞いの持つ働きというか、習性かな、が、アンクがどんなに不利な状況でも、再び自我を取り戻す経緯になるんではないかなということが私なりの答えです。


それにしても、炎の鳥であろうアンクが人間に憑依して、一番好きになったものが氷菓子だった所に脚本家のセンスを見るなぁ。


その延長線上で、

人間という形と、それを取り巻く環境自体がインタフェースであり、その環境に一定時間浸されることでしか人間性は醸造されない。

と仮定してみよう。


虎に育てられた赤ん坊は人にはなれなかった。
ゼントラーディが人型に艦隊を繋げるのもむべなるかな。
人間の関節の比率でロボットを作ると、歩いたり振る舞いが一番人間っぽくなるとか。


そう考えると、逆に使用者である人を、きちんとした人型であり、人間同士の関連性を持った環境や体験を持つ存在、いわば”人モデル”を仮想設定していないUI設計はどこかチグハグであり魔物的だといえるのではないか。などとつらつらしょうもないことを考えてみる。


いや、そんなん当たり前のことかと思うんだけど、意外と”仮想人モデル”が頭の中にないだろ〜ってことあるんですよ!