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いつもすっきりするとはかぎらない

ダークライン (Hayakawa novels)

ダークライン (Hayakawa novels)

多分、雑誌・映画秘宝の、映画化して欲しい小説特集から、気になって選んだのだと思う。2004年このミステリーがすごい海外6位。著者ジョー・R・ランズデールは、アメリカでは「テキサスのスティーヴン・キング」とも言われているらしい。確かに本書も、スタンドバイミー的要素は色濃い。著者を紹介するサイトによると、マーシ ャル・アーツを30年以上習いつづけ、なんと合気道にも習熟しているとのこと。親近感が沸く。
本書は氏の著作の中で最高と評されてはいるそうだが、あえて感情移入を阻害するような書き口に、イマイチ乗り切れなさを最後まで引きずる。だが、おそらくそれ自体も著者の狙いであり、本作のテーマのひとつであるのだろうと思う。こういう割り切れなさこそが人生であると。
繰り返し読まれることに耐えうる本は少ない。おそらくこの本もそんな本の一冊になって行くような気がする。


十三歳のスタンリーと七十歳を越える?バスターの会話はこの物語の白眉だろう。読み進める間に気になったフレーズをメモしておく。
解説「狂風のエネルギー」で中辻さん曰く〝無垢な〟キャラクター造形をされた主人公スタンリーのジュブナイルはかくも美しい。それは後日談に語られる、大人になった後の平凡と対をなす。



(最近までサンタ信じていた位なのに、姉に男女のセックスについて教えてもらった衝撃に次いで、同性の恋愛について知った状況)

バスターは私を見た。困惑している私を。
「大人になる道のりは混乱に満ちているな、スタン」
「そうだね」


(バスターが殺されたマーガレットの母親に会いに行ったときの話のおわりに)

バスターはそこまで言って、ソーダ水の最後の一口をすすった。
「それで全部?」と私は言った。
「おれの十ドルで買った時間はまだ十分残っていたから、それを使った」
「ああ」
「長い年月で学んだことがひとつある。金を無駄に使うなってことだ」


本書を十三歳の息子に勧めるかは悩むところだ。私が彼の歳の時分に父が読んでいたミステリーを借りて読んだのは「ジャッカルの日」だった。大人のミステリーではセックスシーンが物語の必然の中で語られる。子供はそこから多くを学ぶのだとは思う。他の多くの要素と共に。だからTo LOVEるゼロの使い魔よりは良いとは思う。だが今の彼はABC殺人事件が読みたいそうなのだ。それはそれでいいと思う。
ジャッカルの日」は今の私の性格や行動指針に少なからず影響を与えている。熾火のように。だから、子供に与える本には親として悩まざるを得ない。


(物語の最後に)

「ああいう子は、最初から人に対する借りが山ほどあることが多い。これ以上、首をまわらなくさせる必要もないだろう」
「そうだね。でもあれは、ぼくのロイ・ロジャースのブーツだったんだ」
「そいつは気の毒だった。だが、いいかい、一年もすりゃあ、すっぱり忘れちまうさ。そいでもって、二十年もすりゃ、ブーツが懐かしくてしょうがなくなる」
「意味がわからない」
「そういうもんなんだよ。自分は大人になったつもりでいるときこそ、実はそうじゃないことに気づくものなんだ」

「偶然ってこと?」
「そのとおりだ」
「ぼくが今まで読んできた推理小説には、偶然なんてものはないって書いてあったけど」
「それはちがうな。長く生きてりゃ、人生ってのは気が変になるくらい偶然に満ち満ちているものだってことがわかる」
「そうか、でも、どうもすっきりしないな」
バスターはまたにやりと笑った。「おまえさんは今、学習しようとしている。それが人生なんだよ。いつもすっきりするとはかぎらない。だが、部分的にすっきりしたり、かなりいい線いったり、そういうこともある。覚えておくといい、人生は愉しむもんだ。なんたって、死んじまえば、人間も土くれ同然になっちまうんだから。わかるかい?」
「わかると思います」
「よろしい」


こうした、スタンの言葉は、最近やっとわかってきた気がする。つまるところ、腹に落ちてきた気がするのだ。思い起こせば、若い時分から、周りの大人たちに多くの言葉を投げかけられてきた。しかしそれが本当に身につくには果てしない時間が必要なのだと思う。いい話なのだ。


原題は A FINE DARK LINE。邦題「ダークライン」となり A FINE が翻訳時に略された。文中のDARK LINEはスタンリーが悪い予感と共に〝あっちの世界〟との境界線を感じるというような意味で使われていた。その境界が微細な、という意味なのか?
それとも、あえて積極的な肯定的な意味を付加することでアンビバレントな風合いを感じさせるタイトルになっているのだろうか?

●参考サイト