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大丈夫。勉強はきっといつか役に立つよ


半月以上経ってもも、気になる言葉がある。

「ワークショップはとても楽しかったが、職場に帰るとそれを活かすチャンスがない」

懇親会への道すがら、参加者のひとりがつぶやくように発した言葉だ。
気持ちはわかる。私も若い頃そう思っていた。


自分ならこうする。もっと良いやり方がある。もっと任してくれたら、こないだ勉強した新しいメソッドを試せる。こんな古いやり方だと、ウチは生き残って行くことことすら難しいのでは?


焦りにも似た感情。多分それも一理ある。


それでも、今は先輩のやり方に従うほうが良いと私は思う。先輩は偉い。どんなに性格的にダメな先輩*1でも、先人から伝えられてきた技能の伝達者として偉い。運んでいる荷物が重要だから、台車も大切にすべきなのだ。重要な荷物|技能とは、何も情報デザインだけじゃあ、ない。
もし、本当に自分の力を試したいのなら、今の会社は辞めた方がいい。そうやって辞めて行った人は何人かいる。でも、辞めたいという人には、たいていもう少しがんばってみたらと私は言っている。今ここにいるだけでも相当ラッキーなんだぜ?


みんなが座りたい椅子は、座っている人がいなくならなければ誰も他の人は座れない。前人が去るを待つか、新しい椅子を自分で作るしかない。


自分を活かすという意識が曲者だ。
そもそもデザインは人と人を繋ぐためのモノだ。だから自分のアイデアを世の中に問うことも機能としては十分可能である。そういう人は存在し輝いて見え、目立っている。あこがれるのも当然だ。しかし稀である。だからたいていは他人のアイデアを消費者へ伝えるためのお手伝いに終始する。それは、対価を得るための仕事だからだという割り切りもある。だけど、本質的にデザインは自己表現ではないと私は思う。私の理解では自己表現はアートの役割だ。


自分らしくというキーフレーズほど厄介なものはない。途端に能弁になる。自分を語りたがる。


作り手は、作品でのみ語るべきである。という考え方は、まっとうだし、そうありたいとも思っていた。職人的でありたい。職人として、縁あってここに来た仕事へただ忠実でありたい、と私は考える。その中で否が応でも自分は出てしまう。それもたいていは下手として。誰よりも自分が一番良くわかる。次こそもう少し上手でと思う。
しかし、能弁にならざるを得ない現実もときにはある。なら、品良くするか、道化に徹するしかない。決して本来の自分ではなく、それもまた商品化されている。食べやすいパッケージ。天然の人もいるが。w


そんな感じで会社は自分の好きなことをする場所なのではなく、他人のやり方に自分を合わせてお金をもらう場所なんだぜ、という認識について、日々後進に説く毎日。
大丈夫。勉強はきっといつか役に立つよ。
参考になるのか、これで。

●参考サイト

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*1:オレも含む。