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自由席

あまりに苦しそうな咳が隣の17A席から聞こえる。
D席の太った中年の女性は、ピンクのタオルを重ね、顔を覆い苦しそうに呻いている。紫煙で視界が薄く煙る程の禁煙車だ。気管支の弱い人にはたまったものではないだろう。
「700系以外の3号車は喫煙車云々」と東京駅の電光掲示板にはさかんに記載していたが、この車両はどう見ても700系だ。そういえば、ホームで2号車の入り口へ列を変わる人が目の端に映った、グレースケールの画像記憶が残っている。それは、急に並んでいる列が短くなったことから推論形成された架空の映像かも知れない。しかし、おそらく何らかの告知情報は存在したのだ。ただ、見落とす人が数人いる程度の周知しかできていない、足りないインフォメーションデザインだったのだ。


横浜駅を出て数十分、しばらくのまどろみから醒め、あたりを見回すと相変わらず状況は変わっていない。視界は薄く煙り、A席は咳込み、D席は苦しそうだ。
C席が電話をするためにデッキに出たので、これも機会と席を立ち、2号車へ向かう。ガラス窓の向こうに映る2号車の雰囲気から、まるまる一車両分離れていても、ぼくはある確信があった。紫煙を楽しそうに燻らすラテン系の顔立ちの男がいるデッキを抜け、禁煙席の2号車に入る。あまりの空気の清浄さに多少驚きながら、足を進める。


あった。


予想通り、空席がある。
2号車の半ばで、すでに空席が複数あることを確認すると、歩を返し3号車の自分の席へ戻ることにする。振り返って見ると、2号車の通路を17Aの女の子がこちらへと歩いて来る。なるほど、彼女も気がついたのだな。見知らぬ他人に話しかけずにすんでほっとしながらデッキで彼女とすれ違った。


なんだか愛着の湧いてきた自分の席に座る。さて、どうしようか。


残るは一人だ。彼女は、席を離れるリスクを犯したくないのか、それとも2号車に空席がある可能性に気がつかないのか、いったいどちらなのだろうか?苦しそうな様子に気の毒な気もしたが、個人主義者でもあり、冷たい観察者でもあるぼくは、もう少し様子を見ることにした。

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さて、しばらく経ち、のぞみは名古屋に近づいた。ぼくは意を決し、D席の女性に話しかけることにした。


「煙草で苦しそうですが、1、2号車に空席があると思いますよ。」
「本当ですか?」
「ええ、しかももうすぐ名古屋です。下車される方もいると思います。」
「ありがとうございます。」


名古屋での搭乗者はぼくの想像以上に多かった。デッキの混雑に巻き込まれ、彼女が座れない可能性を考えた。もう少し早いタイミングで声をかけるべきだっただろうか?


彼女は帰って来ない。どうやら座れたようだ。