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再構築する身体性

『インターネットやテレビゲームへの没頭により、人間としての本来の「身体性」が失われ、結果としてコミュニケーション不全な人が増えた』みたいな文脈で、身体性はよく述べられたりするんだけど、ぼくはそうは思いません。
コンピュータネットワークは、人間の身体性を爆発的に拡張した点に特異性があるだけで、こうした身体性の拡張は有史以前から人間の活動として存在しています。

最初は、モノを道具とする事で手の身体性が拡張された。なぜ、武器を意味する英語はARMSなのか? おそらく武器が手の延長であり、両者には明確なアナロジーが存在すると、大多数の脳が認識したからでしょう。

一方、拡張した身体性による活動境界の延長が、個体の身体的同一感の喪失につながると感じる人たちはずいぶん前から存在した。インディアンの風習に、「長距離を馬で移動した後は、必ず何日か休憩しなければならない。そうしなければ、体の移動に魂の移動がついてこれず大変なことになってしまう」という話を以前聞いたことがある。おそらく一種のアイデンティティクライシスなのかも。最近だと電脳コイルの中で電脳体がずれている演出なんかが見た目にはわかりやすよね。


文明化した現代でも、車に乗る事で人間はより早く、遠くにまで移動できる身体性を獲得するけど、同時に、普段温厚な人が車に乗ったとたんに気が大きくなり、割り込みした車にクラクションを鳴らしたりののしったりする人もいる。拡張された能力を認識することで、気持ちや行動まで大きく変化している例だと思うんだ。

急にお金持ちになって、人が変わってしまうのも、身体性の拡大によりその人の認識が変わってしまった例としてあげてみよう。

でも、世の中の大勢の人はこうした身体性の拡大縮小と上手に付き合って来た。

確かに、コンピュータの普及による身体性の拡大はあまりに爆発的であり、多くの人に眩暈を憶えるほど身体性の拡張と喪失、つまりはアンバランス、そして混乱を生むんだけど、こうした経験を大勢の人間が共有、試行錯誤していく中で、新しい身体性を確立して行くんだと思う。

ゲームパッドやキーボードと、視覚からのフィードバックという、たったそれだけのインタフェースですら、豊かな身体性を構築するほど、人間の脳は可塑性にあふれている。そこに新たな仮想ボディーは確実にあると思う。というか、本質的に人間の脳は、実体としての身体からのフィードバック情報により、脳内に仮想の身体を構築することで、自ら人間たりえている。

そういう意味では主観的な自己認識とは、そもそもが全て仮想なのだ。

繰り返すけど、高度情報化社会では、それに適した身体性の拡張と再構築の方法があり、私たちは誰もがそれを学び、身に着けることが可能だと私は信じている。人類の脳はそれが可能なだけの容量を十分に持っていて、必要なのは適切な訓練だけだと思うのです。

筋電義手の装着は、身体性の再構築なんだってことを説明しようとしていて、自分のために身体性について事前に少しまとめてみた。

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