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醸造アルコール添加

正月なので日本酒について最近考えていたことを書く。


もともと、ぼくはそんなにアルコールを摂取しない。飲むのはそこそこ好きだけど、日常的に飲まない。しかも長い間国産のビール中心だった。従って日本酒には疎いのだ。
それが、去年から近所のそごうでの試飲につられて、うまいな。こりゃ。と、日本酒を飲みだした。試飲すると買ってしまう。まぁ、いいお客である。もう、まったくのカモだね。


そごうでは百貨店ということもあり、付加価値の高い「特定名称酒純米酒吟醸酒本醸造酒)」の取り扱いがメインになる。自然、飲んで買うのも純米酒多くなる。
純米酒酒税法上、添加物を認められていない。つまり醸造アルコールの添加がないのだ。
今回はこの醸造アルコールについてのお話。


「純」という概念は強烈だ。はっきり言ってヤバイ。危険だ。
純米酒というだけで、コンスターチやなんやかや添加している国産ビールに比べて、実に美しく、すがすがしく感じる。そこに、戦前は全ての日本酒は純米だった。とか、戦後、酒税制度に苦労しながら100%純米の蔵にした。とかいうストーリーを聞くと。YES!純米が最高!添加物イラネ。もう、とにかく純米酒から選ぶぜ、オレは。という単純な感じになっていた。


ただ、色々飲み続けていると、なぜか、純米酒以外も混じってくる。
最初は困った。よけるのがめんどくさい。次に疑問がわいてくる。
純米がそんなに良いのなら、あきらかに純米酒より価格の高い大吟醸吟醸になぜ醸造アルコール添加が認められるのか?
なぜ、冬の入りに出回る生酒には醸造アルコールが決まって入っているのか?
不思議に思う。何か変だ。しかも試飲するとどれもうまいのだ。飲んでいて醸造アルコールが入っていることに問題を感じれないのだ。確かに、うまけりゃそれで良いのだが、純米に対するそれまでのこだわりもある。何ともすわりの悪い気持ちになる。このままでは酔えない。


おそらく、醸造アルコールは、使用イコール悪という単純なものではないのだろう。それは、日本酒という大きなものづくりの枠の中での、選択肢の一つであり、この手段をとらなければ到達できないものもあるに違いない。もちろん、純米という製法も同じ選択肢の中の一つということになる。


色々調べていてとりあえずはそんな結論になったんだが、そうなると結局重要なのは自分でその違いを識別できるかと言うことになる。


デザイナーという職種柄、どうしてもパッケージがコンテンツを明示するデザインを持つことを当たり前に思ってしまう。けれども、日本酒という嗜好品は、味そのものが複雑な情報の集合であり、つまりはテイスト=デザインである。そこに籠められた作り手の思いや技量、素材への吟味は、書籍やホームページ、宣伝やパッケージデザインによって強められることはあっても、一杯の杯に注がれた液体を飲んで、飲み手が識別できなければ、本来無意味なことなのだ。
これは、恐ろしいことである。作り手から真剣勝負を挑まれたようなものなのだ。はぁ、わかんないの?お金はあっても、本当は飲む資格なかったんだね。あんたは。水でも飲んでたら?そういわれても仕方のないことなのだ。


結局、飲むしかないのである。
黙って飲んで、飲み続けて、自分の中のサンプリング数を増やし、一品ずつ、一杯ずつ、自分で識別、判断するしかないのだ。そう考えると、ずいぶん楽になり、また愉しくなってきた。
繰り返すことは得意なのだ。