tQy

それでも残る「結界」

阪急「門戸厄神」駅から西へ10分程度歩く。住宅街に突然山の端が目に飛び込んでくる。緩やかな坂道がこんもりとした丘に続く。神戸女学院合気道のお稽古が女学院の道場で初めて行われた頃は、外部の男性ということで入り口では念入りに誰何されたといいます。


門を越えると坂道の両側は急にせり上がり、谷の底をゆっくり登っていくことになる。気がつくとあたりから車の音は消え、わずかに湿度が上がり気温が下がる。結界の中に入ったのだ。谷の両側には石造りの建物がひとつまたひとつと現れる。それはまさに中世の僧院の様。「薔薇の名前」を思い出します。あれほど荒涼としていないけど。もしくは、風の谷とか。こういう谷に結界を張って、密やかに何かを守り続けているのでしょうか。



大きな地図で見る


グーグルマップを見て驚く。


この森は六甲山系の山麓の一部が住宅地に張り出した形で残っているのでは全くない。恐らく昔は、甲山に端を発する尾根の一部だったかもしれないが、現状は全く住宅地内に孤立して存在しています。
内田先生のblogから、話にはお聞きしてはいたんですが、地形や森林などに寄って形成された霊的結界の有り様をまざまざと見せ付けられたようで本当に驚嘆。この結界の中にいると、周囲に広がる高度成長期以後〜平成以前あたりの現代の町並みに位相を重ね、過去の野山を幻視できるような気になる。


実をいうと、ぼくはこれに近いことは、割と多く体験している。


次のグーグルマップを見てください。



大きな地図で見る


とても似ているでしょ?


この航空写真の地図自体は、今回見るのが初めて。それでも、調べる前からある程度似ているのではと思い探してみたのです。なぜなら住宅地から森へ急に移行した際に感じる違和感をキーとすれば、ここはとても共通する体感をもたらす「境界の地」なので。実際に地図を見ると、想像以上に似ていて、ちょっと驚いたんだけどね。


それで、ここは何処かというと、大阪の京阪電車光善寺」駅の東側にある森です。何でこの場所を知っているかというと、ぼくは高校生の頃このあたりに住んでいて、光善寺駅のすぐそばにある大阪市立高校へ通っていたんですね。それで、この森を通り抜けると学校に近道ができたのです。当時、山に入った途端、急にあたりがしんとして、皮膚がピリピリする感覚がとてもよく似ていたのを思い出しました。


この辺は北摂の丘陵地帯で、住宅にの中にけっこう山がぽつぽつと残っています。さらに東へ行けば平地になり、戦時中に火薬工場だった香里団地が広がっています。あの頃は極力道路を使わず、山伝いにどこまで行けるか良く遊んだりしていたんだよね。しかし、付近では一番大きな森を所有する「蹉跎神社」の数倍もあるこの境界の地に、いったいどういう由縁があるのかは謎ですね。


ここらへんには今では数年に一度程度も行きませんが、帰るたびに宅地造成が進み山が削られるのを見るのが嫌でたまらなかった。菅相塚の給水塔はいつの間にか消え、奇妙な動物のような切り株も、鬱蒼とした小屋も、畑の中の小径も、多くのものが消え去りました。そして、そんな風に獣道を自分で探して歩くと言う習慣もぼくの子供には伝わっていません。まったくね。



大きな地図で見る


もちろん、今住んでいる西神中央にも貯水池や公園がたくさんあります。最近はちょうど朝日が昇る西神中央公園なんかは、古墳だったんじゃないかなと思う形をしています。一人で中に入るとそれなりに車の音も小さくなり、自然の中にいることを感じさせてくれます。また、前にもちらっと書きましたが、竹の台から櫨谷へ抜けるあたりの坂も結界を抜ける強い感じを受ける「境界の地」なんだよね。西神中央は新興住宅地でありながら周囲に歴史の深い地域が隣接しているのです。


最近は朝日の出前に自転車で出発し、山の入り口までアプローチして、そこからは徒歩で山行して2時間くらいで帰ってくるというのを始めました。国土地理院の地図を買ったのも久しぶりです。


最後に注意。今回紹介したような「境界の地」へ準備なく簡単に入ることはお勧めしません。もちろん、土地の所有者の方に対するコンプライアンス的問題もあります。でも最大の問題は、森はやっぱり異界。非常に怖い場所だと思うのです。ぼくはかなり小さな頃から色々な山に入っていた習慣があったので多少は慣れていますが、それでも怖いときがあります。例え数百m四方と小さな空間で、周りは全て人家であっても、その結界内では人界とは別の法があるような気がします。ぼくは山に入るときに「すいませんが入れてくださいね」とご挨拶をすると、山の神様と自分の守護霊がオートマティカリーにネゴを適当にしてくれているような気がします。まぁ、気がするだけで、全く根拠はないんですがね。


さて、神戸女学院でのお稽古は一ヶ月近く前のことで、なぜ今頃こんな事が気になったのかは良くわからないです。
日曜の杉浦さんの講演で、アジア各地の「寿」という字のさまざまな有り様についてのお話を聞いたからかもしれないし、また、その講演の最後の質疑応答のときにぼくは、「優秀な日本人研究者ほど英語で論文を発表し、大本の中国人は一般に少しも漢字を大切にしていない。ベトナムでは漢字やチュノムは廃されて久しい中、漢字文化の甦りに希望を持っていらっしゃいますか?」などとお聞きしたからかもしれない。
そうお聞きしたのは、なんだか全てが失われていく中でも、唯日本では何かが残るし、繰り返し甦るに違いないという、これまた根拠のない楽観的確信に、だんだんと至って来たような気がするからで、結局はそのせいかもしれません。里山も鎮守の森も、アスファルトやゴルフ場に囲まれながら、それでも残っているんだよね。

関連エントリー

●参考サイト どこで読んだのかあんまり良く憶えてないなぁ… そんな昔ではなかった気がするんですが。