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味はどこまで判るのか

結局、飲むしかないのである。
黙って飲んで、飲み続けて、自分の中のサンプリング数を増やし、一品ずつ、一杯ずつ、自分で識別、判断するしかないのだ。そう考えると、ずいぶん楽になり、また愉しくなってきた。
繰り返すことは得意なのだ。
                                   ───醸造アルコール添加

と書いてみたが、正直に告白すると、ぼく自身たいした味覚はない。しかも今さらサンプル数を増やしても味蕾センシング能力はそんなに向上しないのだ。つまるところ、子供のころのインプットが大枠を決めてしまうのである。生まれ育ちというが、残念ながらそこまでを含めて才能という。デザインの仕事について早10年以上。努力ではどうにもならない才能の違いをいやというほど見てきた実感からそう思う。


さて、味はそんなに均一に知覚できない。
何よりも時間の経過によりすぐに変わってしまう。
純米吟醸 お福正宗」は一升瓶を開けてすぐの時は、なぜこんなにうまいんだろうとさくさく飲んでいたが、2週間出張で家を空けると、なんとも気の抜けた味に変わっていたような気がして残念だった。
「しぼりたて生酒」は正月に栓を抜いて飲み、一晩置いて翌朝また飲んだだけで少し辛めに感じた。
ほんの数時間で、味はさまざまに変化する。
もちろんこれには、味わう側の体調にも依存する。


さらに、材料のよい年もあれば悪い年もある。そもそも醸造なんてある意味偶然性の高い技術なので、どうしても思ったように行かないことだってあるだろう。去年とまったく同じ味のものができるという考え自体何かまちがっているような気がする。


しかも、男性と女性では脳の働きが異なることが良く指摘される。
脳の働きが異なれば、当然五感の感度は異なるだろう。
そういう意味で厳密に考えれば、個々人で脳はすべて異なる。良く言われることだが、あなたの見ている緑色が、私の見ている緑色と、まったく同じという保証はどこにもない。
そう考えると、私が、誰かが、味を完全に理解するという考えは幻想かもしれない。


濃度、生産地、原料、ほんのわずかな違いがわかる人はほんのわずかだ。しかし、悪意ある人間は昔からどこにでも存在し、実際のところ、酒は昔から混ぜられ続けてきた。伝統的な製造手法以上に、犯罪は伝統的な人間の習いなのだ。モラルを問うことは容易だが、徹底させるには手段が不可欠だ。


そういう立場で考えると、日本酒の将来を守るためには、さらに厳しい品質に関する規定があっても良いかも知れない。
例えば、フランスでは、A.O.C.(Appellation d'Origine Contro^le'e 原産地統制名称制度)という制度があり、チーズ、ワイン、農産物などは、非常に厳しい試験を通過したものだけがA.O.C.認可を受け販売されるそうだ。
この制度は、原料の偽装を取り締まり、伝統的な製法を守り、市場での違法なコピー商品の流通を防ぐなど、今日の日本の状況を見ても役に立つ内容に思える。
同様の制度はイタリアにもあり、こうした制度を元に原産地統制名称制度はEC全体に広まりつつあるという。
残念だが見て読んで証明されないと内容はわからないということだ。


日本の酒税法はかつて、特、1、2級ごとにアルコール度数が指定されていた。昭和37年にアルコール度数の指定がなくなり、平成4年に日本酒級別制度が廃止、平成16年には精米歩合規定が撤廃など、どんどん緩和の方向にある。戦後の米不足、そもそも酔うことが目的など、当時の状況ではそれなりに目的を果たしていた法律も役目を終えたということだろう。翻って、現代、日本酒という商品を世界の市場で考えた場合、明らかに高級酒として楽しむ文化的側面を強調していく方が、生き残る確率が高い。


現在の酒税法では、特定名称酒の表示に関しては原材料や製造法の規制があるだけだ。個々の意識の進んだ蔵が独自の基準で、加工食品として最も重要である原料の原産地に関する表示などの表記や品質を管理しているのが現状だろう。個々のがんばりは確かにすばらしいけど、そろそろお役所の人を動かして、日本版原産地統制名称制度みたいなものを検討してみる時期じゃあないのかな。もちろん全部の商品ではなく、高付加価値商品を対象にした話なんだけど。


職人さんがこの道20年云々と書いているのを見て昔は長いなと思ったが、なんだか最近はとても短く感じる。職場にもよるが、生涯現役でがんばっても、1人の人間がまかなえるのは50年が限度だろう。100年以上ともなると、やはり人を介さなければならなくなる。人に伝え続けて数百年以上にわたって伝わる技術が伝統というのが真実だろう。だとすれば、人に伝えれない技術なんて、単なる個人技にしか過ぎないんだよな。