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UIには寿命がある〜PlayStation®Store雑感〜

綺想礼讃

綺想礼讃

綺想礼讃を読んでいて、

小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」は以前にかなり修正してしまった。(高校生の西洋文化への誤解を避けるためやむなく)なんとか校定(この言葉初めて知ったよ)し直してもう一度本を出しなおしたい。でも買う人いないんだよなぁ。まぁ300万ぐらいなんで、有志が3人、100万ずつ出せば出版は可能、

というような内容の記述を読む。


あぁ、やっぱり本っていいなと思う。もちろんここでいう校定作業は果てしなくたいへんな作業だろう。300万には原稿料が入っているわけもなく、もちろん持ち出しなんだろう。


それでも、実現の可能性があるだけ、本というメディアには時代を超えて生き残る可能性を感じる。


PlayStation®Storeで10年くらい前のゲームをDLしていて思った。確かにPSのゲームを上手にPSPにのせている。でもこれらをもうちょっと別の視点から修正することの難しさを。
権利委譲問題、当時の技術の再現、ソースコードの入手性。
自社によるリメイクではなく、出版にあるような他社が全集や文庫化するような企画。


さらに、村上春樹が言う「翻訳には寿命がある」のなら、ゲームでは「UIには寿命がある」。少しずつ進化し世の中で共通化したお作法やふるまい。時代と共に変るビヘイビア。旧仮名使いをどこまで現代にするかに通ずる、同一言語内でのローカリゼイションに似た薄皮を剥くような細かい摺り合わせ。


アーケードゲームなんかは、ヴィデオボードやモニターがアナログ過ぎて、再現すら難しいんだよなぁ。ジョイスティックの感覚まで再現するとなるとエライことである。


ドラクエなど、人気作はほっといても手をかけてもらえるだろうけど、小栗虫太郎的作品(そして多くの過去のゲームはそうだろう)に粘着して、当時のスタッフにインタビューしてまわったり、当時の組立工場を取材したり、アナログモニターのインタレースを液晶で擬似的に再現したりしたい。そういう無用の用的なことに、大切な人生を浪費するような事はどうなんだろうね。すごく楽しそうなんだけど。そういうことを自分の金で一種作家的にアプローチすることは現代ではなかなか難しいんだろうなぁと妄想。でも、基本のゲームデザインはそのままで、当時のスタッフが夢想していたが、時間や技術的問題で、どうしてもできなかったことが今ならできるような気がしてそれが見てみたい。作ってみたい。


そうなれば、連歌本歌取り文化の面目躍如といった気もするが、そこまで手を
かけてもらえないゲームというメディアが不憫でならない。

○ゲームいっぱい